古今洋歌集

…力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも哀れと思はせ、男女の仲をも和げ、猛き士の心をも慰むるは、それ歌なり。
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コレクションの行方

横浜・野毛のジャズ喫茶「ちぐさ」が閉店。

昭和8年開店、空襲で焼けたが昭和22年に再開。
店主・吉田さん亡き後、妹さんが継いでいたが
13回忌を迎え、ビル建設に同意したそうだ。
東京新聞が取り上げていた。



若き秋吉敏子は、気に入ったレコードがあると
よく「そのフレーズをもういっぺん」と頼んだそうだ。

野毛の街は、高校生の頃、中学同窓会と称して
養老の滝で飲み会をやっていた(笑)けれど、
「ちぐさ」は行かなかった。

高校を卒業した春休みに、ひとりで一度だけ行った。
音楽は何が流れていたかというと、たしかシドニー・ベシェとか
レスター・ヤングではなかったかな。
客は、私と、もうひとりだけ。1970年代後半のことであります。

「ジャズ喫茶のマッチ」サイトより

6,000枚あるレコードの引き取り手が決まってないそうだが、
いっそのこと店そのものを移築して、オーディオもレコードも
保存しておけばどうか。
団塊退職者の方々から寄付を募って、市有地の適所へ。
運営維持はボランティアで。まあ、夢物語だろうが。

そこそこ歳を取れば、誰しも「想い出の店」はある。
そんな店だけを復活させて、ひとつの街にできたならば、
さぞかし楽しかろ。思い描くだけでも。
狸穴の「ガスライト」、防衛庁わきの「George」、銀座交詢社ビルの「ピルゼン」
オレなら、この店。いや、あの店は外せない、とか。
その頃に仲良かった人々も、もちろん(当時のまま)登場する。

映画ポスター10万点をコレクションをしていた八王子在住の畑さんというが
市に寄贈したのはいいが、寄贈者と市側の思惑が違い、
結局のところコレクションは返却と決まったそうだ(これも東京新聞)。

私が大学生で国立でテニスをしていた頃、
植草甚一さんが亡くなって、蔵書が、なぜか国立の古本屋にごっそり安値で出ていた。
植草さんのレコードコレクションは、タモリが一括引き取ったと聞いたことがある。

コレクションの行方はいろいろだ。


Old Timey (2) 淑女懐古を愛す
 オールドタイミーの流行に「それなら私よ」と直球勝負で挑み成功したのが、ご存じマリア・マルダー。リプリーズから1973年にソロ盤「Maria Muldaur(邦題オールドタイム・レディ)」と74年「ドーナツショップのウェイトレス」を続けざまに出す。シングルカットした「真夜中のオアシス(Midnight at the Oasis)」はビルボード最高6位に。もともと1960年代からイーブン・ダズン・ジャグバンド(Even Dozen Jug Band)やジム・クェスキン・ジャグバンド(Jim Kweskin Jug Band)に旧姓ダマート(Maria d'Amato)の時から参加して、古いフォークやブルースやジャズやカントリーをずっと歌っていた人だから、年期が入っていて上手いワケだ。

★真夜中のオアシスRemix⇒WHAT IS HIP? (全曲聴けます。ほかにも、AMBROSIA「Biggest part of Me」TODD RUNDGREN「Hello,It's Me」AMERICA「Ventura Highway」など。)

'73年当時、マリア姐さんは30歳。キャロル・キングが「ライター」を出した年齢と一緒ですね。音楽と実生活のパートナーだった夫(マリアにジェフ、キャロルにジェリー・ゴーフィン)と別れ、ソロで成功したのも同じ。若く伸びやかな声、嫌味にならない色気もあって、いろんなジャンルの歌をこなしている。演奏陣もエイモス・ギャレット、ライ・クーダー、グリスマンとリンドレーの両デビッド、ジム・ケルトナー、ドクタージョン等のメンバーで固めた傑作。リリース当時から時代を超えてるので、いまでも魅力が衰えない。ジャケットも時空を飛んでおります。また、最近では(子供向きアルバムも含めて)1998年から7年連続でアルバムをリリースしているのにも驚く。

 英国淑女も1973年、負けじとオールドタイミー盤を出しております。マリア姐と同じように名門フォークグループ(こちらはフォザリンゲイFotheringay、フェアポート・コンヴェンションFairport Convention)の出身でソロになったサンディ・デニー。マリア・マルダーと同じくジョー・ボイドというプロデューサーが関わっていた。1970年当時はイギリスで最も人気があった女性歌手でした。「オールド・ファッションド・ワルツ」は、アイランドレーベルから。自作曲に交えジャズとブルースの古いところを2曲。マリア姐のような色気はありませんが、甘さがなく凛としてどこか日本の侘び寂びにも通じる歌声だった。1978年に病気で亡くなってしまいました。90年代のケルトブームなぞまったく知らずに。もし生きていたら、どんな歌手になっていただろうか?


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Old Timey (1)  懐古の誘惑
 15歳の想い出話を3回書いて、すっかり懐古blogになってしまった。個人の想い出話は、これくらいに。1970年代はグラムロックとかスワンプロックとか色んな名前をつけてレコード業界と音楽雑誌がプロモーションしたけれども、「オールドタイミー」という懐古スタイルを取り入れた音楽もあった。初めて聴くのになぜだか懐かしいっていうヤツです。名前からして昔の芸人風にしたハリケーン・スミスは、「オウ、ベイブ(Oh,Babe, What Would You Say)」をビルボード3位の大ヒットに。1973年のこと。口髭をはやしたオジサンが、50近くになって1曲の大ヒットとソロアルバムを残した。この人、ノーマン・スミスの名でビートルズ「レボルバー」のエンジニアをしたり、ピンクフロイドの初期アルバムをプロデュースしていた。確かウマグマの頃まで関わっていた。ノスルジックなメロディにしわがれた声を乗せて飄々と歌うところが実にいい。
 オランダの歌姫と呼ばれたアン・バートン(1933ー1989)。1973年に来日した際、六本木のジャズクラブMistyで録音したアルバム「ミスティ・バートン」では、ヒットしたばかりの「Oh,Babe」を歌っている。最初はスローで、次に少しテンポを上げて。丁寧に、しかも軽やかに歌う。小さなクラブでピアノトリオをバックに十数曲。その夜の雰囲気が伝わってくる好盤でした。

1973年頃の「Old Timey」と「ルーツ回帰」盤】 
自作曲を歌ってメジャーになった歌手が、子供の頃に親しんだ歌や個人的に傾倒しているジャンルの歌を集めたアルバムを作る。これが流行し出したのは、1972年頃からだったように思う。ライ・クーダーは初めからアメリカの古い歌を発掘してくるのが得意だった。1973年にメジャーデビューしたトム・ウェイツも懐古趣味ではないが「ビートニックを甦らせた」と形容されていた。そのほかにも…

ベット・ミドラー「デビュー盤(Divine Miss M)」
ニルソン「夜のシュミルソン(A little Touch of Scmilsson in the Night)」
ポール・サイモン「ひとりごと(There Goes Rhymin' Simon)」
カーペンターズ「ナウ&ゼン」
アーロ・ガスリー「ラスト・ブルックリン・カウボーイ」
アメリカン・グラフィティ「サウンドトラック」
キンクス「プリザベイション第1幕」
レオン・ラッセル「ハンク・ウィルソン」
デビッド・ボウイ「ピンナップス」
ブライアン・フェリー「愚かなりわが恋(These Foolish Things)」
有名どころを挙げただけでも、これだけある。
1973年は、懐古趣味サウンド元年と言ってしまおう。

…次回へ続く(予定)



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When I Was Fifteen (2)  アーロと親父
15歳の頃に聴いた歌。続きです。HOT MENU'73にも収められていたアーロ・ガスリー。1972年の4作目LPが「ホーボーズ・ララバイ」。日本盤アナログLPは、エンボス加工の厚手紙ジャケットの中央に別刷り写真が張り附けてありましたっけ。1曲目からライ・クーダーのボトルネックが迫ってきます。この中からのシングルカット「シティ・オブ・ニューオリンズ」は、アーロ初のメジャーヒット。City of Neworleans号という名前の列車に乗ってアメリカを旅する歌ですね。シンガーソングライターのスティーブ・グッドマン作。
 アルバムタイトルになっている「ホーボーズ・ララバイ」は、アーロのお父さんウディ・ガスリー(オクラホマ出身1912-1967、アメリカン・フォークソングの父)が大好きで良く歌っていたという古いフォークバラッド。息子アーロは、父が亡くなった1967年に「アリスのレストラン」でデビューしとります。で、4作目LPのラスト曲として、親父さんの好んだ歌をとてもとても丁寧に歌っている。父への想いが聴こえてくるようであります。


★アーロの公式サイト
http://www.arlo.net/
★映画「ウディ・ガスリーわが心のふるさと」
www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=2528
★ブッシュとケリーの喧嘩を描いたパロディアニメに…ウディ・ガスリーの有名な「わが祖国(This Land)」がBGMに
hotwired.goo.ne.jp/news/news/20040730205.html
★「ホーボーズ・ララバイ」歌詞Lyrics On Demand(ここはけっこう便利)





When I Was Fifteen (1)  親父とロキシー
天気に恵まれない3連休でしたね。私は、台風にめげず、父の1周忌ではるばる横浜へ行って来ました。寺でお経をあげてもらって、墓へ行って、中華街で兄弟親類と食事。中華街の料理店は、父が昔から好きだった店。私は中学生の頃から連れられてはパクムシャと食べていた。そこの女将は、私の娘が中学3年になったと聞いて「まあ〜早いわね〜。お父さん(私のこと)が最初に来たのが、ちょうど貴女くらいの歳だったわア〜」といささか大仰に驚いてみせた。ハハハと笑って誤魔化したものの、歳は誤魔化せませぬ。

いま娘は、アシュリー?とかヒラリー?とかスカイ?とかを聴いているようでありますが、私の15歳当時は、何聴いていたか。横浜から帰る電車の中で考えていました。アルバム中心に買うようになっていたけど、まだシングル盤も買っていた。ドン・マクリーン「アメリカン・パイ」、アイザック・ヘイズ「黒いジャガーのテーマ」、リン・アンダーソン「ローズガーデン」、Tレックス「ゲットイットオン」、オージェイズ「ラブトレイン」なぞはシングルで。印象が強かったのは、有名なワーナー=パイオニア時代の2枚組サンプラーLP「HOT MENU'73」でしょうか。28組アーチストを1曲ずつ収録。ヒット曲中心だけれど、ブラック・オーク・アーカンソーとか、ラマタムとか渋いグループも。曲順は、ライ・クーダー「ダークエンド・オブ・ザ・ストリート」〜アーロ・ガスリー「シティ・オブ・ニューオリンズ」。ヴァン・モリソン「ワイルド・ナイト」〜ザ・セクション「ミートボール」。ドクター・ジョン「スタッカ・リー」〜スピナーズ「アイル・ビー・アラウンド」。ダニー・オキーフ「グッタイム・チャーリー」〜ダニー・ハザウェイ「リトル・ゲットーボーイ」というつながり。この選曲者、タダ者じゃない感が漂いますね。中坊当時は狭い音楽基準で「コレは好き、コレは嫌い」と、ライナーノーツに☆とか◎とか△とか(鉛筆で)つけたけれど、その狭いセンスがいまでは懐かしいです。狭いながら新しいものに貪欲だったっけ。

もうひとつ電車の中で思い出したのは、ロキシーミュージック1stアルバムのこと。当時、横浜駅西口地下街のヤマハ店だかスミヤ店だかにLPを予約していて、私が取りに行こうと思ったら風邪引いて行けなんだ。親父が会社の帰りに引き取って来てくれた。袋から出すと、(ミュージックライフの広告で見て)想像していたより「どギツイ」ジャケットで驚いた。50歳くらいだったはずの親父、レコード店でかなり気恥ずかしかったのではないかと思った。CDじゃなくてLPだと面積デカいですから。しかも裏ジャケはヴァージニア・メイヨ(ジャケ写のモデル)の脚がにょ〜と伸びている。私には何も言わなかった父でしたが。(もしもカントリーライフだったら一言あったかもしれない。親父、何って言っただろうなあ…)

 


【今日のあれこれ】
★★芸事はぼちぼち成長するしかおへん…祇園の15歳



SUNNY   丙午に生まれて
たまらん蒸し暑さだ。からりと晴れた日を想って「サニー」を聴く。
ボビー・ヘブ(Bobby Hebb,1938年ナッシュビル生まれ)が自作自演し、1966年にアメリカ・ヨーロッパで大ヒットさせた曲だ。最近、フォルクスワーゲンニュービートル・カブリオレのCMで使われたので(ボビー・ヘブのオリジナルではないが)耳にした方も多いだろう。

 サニー、昨日まで僕の人生は雨ばかりだった。
 サニー、でも君の笑顔が辛さを癒してくれる…。
歌詞

●クルマついでに言えば、日産自動車の初代「ダットサンサニー」B10型が発売されたのも、実は、ボビー・ヘブのヒットと同じ年、1966(昭和41)年だった。新聞に車名公募キャンペーンの広告が載り、800万通以上の応募があったという。ネーミングのベスト5は「フレンド」「ポニー」「ポピュラー」「フジ」「ペガサス」だったが、結局のところ「Sunny」と決まって4月に発売された。

●ところで、ボビー・ヘブという人は、3歳からお兄さんとコンビを組んで舞台に立ち、タップダンスや歌を披露していたらしい。兵役中には、トランペットを習いウェストコーストジャズも演奏した。たくさんの曲を書いたが、大ヒットはこれ1曲。けれども、エラ・フィッツジェラルド、ホセ・フェリシアーノ、シェール、マービン・ゲイ、ミスタースポック(スタートレック)のレオナード・ニモイ、日本では原田知世や和田アキ子のバージョンまである。500組以上のアーチストがカバーしている堂々たる大名曲だ。ビルボードのポップチャートで2位(1966年8月)、年間チャートで35位にランクされている。

★ボビー・ヘブ2004年3月のインタビュー記事
ロックポート(ボストンの北)に30年近く住んだがナッシュビルへ戻る予定」
www.boston.com/news/local/articles/2004/03/11/hebbs_sunny_future/


●日本に目を向けると、昭和41年。丙午(ひのえうま)で、出生数が前年比25%も減った年。星影のワルツ(千昌夫)、恍惚のブルース(青江三奈)、星のフラメンコ(西郷輝彦)という3曲揃い踏みのほか、ラブユー東京(ロスプリモス)、二人の銀座(山内&和泉)の「東京もの」がヒット。5月にNTV「笑点」と少年マガジン「巨人の星」がスタート。6月はビートルズ初来日(前座は内田祐也やドリフターズほか)、10月にみゆき座で映画「男と女」公開。エノケンが「うちのテレビにゃ色がない」とサンヨーのCMで歌った。家族でピカピカの2ドアセダンに乗ったり、カラーTVで笑点を観たり。丙午の年に流行したSunnyは、クルマも音楽も「笑顔」が似合っていたのだろう。だが、戦後640万台も売れたファミリーカー「SUNNY」のブランド名も、この秋で消える予定だという。

【今日のあれこれ】
◆ビートルズの前座…1966年8月、ボビー・ヘブは、ビートルズが全米ツアー(日本公演の後)をした時、クリーブランド公演で前座を努めてSunnyを歌った。

◆企業スパイ?…日産に対抗するトヨタは、超極秘の初代サニー設計図を入手してSunnyより排気量プラス100cc、車内寸法プラス10mmの「カローラ」を同年秋に発売した。 

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