古今洋歌集

…力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも哀れと思はせ、男女の仲をも和げ、猛き士の心をも慰むるは、それ歌なり。
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アマンの人々
ルーテル学院大の先生が教えてくださる「宗教学入門」に入門している。
ゆえにペンシルヴァニアの事件が気になる。例えば産経ニュース
「現代文明を拒否して18世紀の生活を守る」「高等教育を否定する」
と書くが、現世否定・カルト傾向の強い人々ではないだろうに。
近隣とトラブルを起こすわけでなく観光客も受け入れ(かなりの収入源らしい)ている。



で、アーミッシュ=アマン派。Wikipedia等かいつまむと
プロテスタントのメノー派の、そのまた分派であるところのアマン派は、

もとは、1690年頃アルザス地方でヤコブ・アマン(Jakob Amman)師が始めたもので、
そのもとは、1560年頃メノー・シモンズ(Menno Simons)師がつくった
メノー派(メノナイトMennonite、鉱石にあらず)であり、そのまたもとは、
1520年代にできたスイス再洗礼派で、その前に過激派のオランダ再洗礼派があり、
その背景には、ツヴィングリ、ファレル、カルヴァン、ルターらの宗教改革があった。
ややこしや。

メノ師

歴史のあらましはこちらこちらこちらであるらしい。


現在アマン派(Amish)はヨーロッパにおらず、北米だけ人口19万8千人(2000年)。
コミュニティ規模で言うと、第1がオハイオ州Holmes郡(5名5千)、
第2が事件の起きたペンシルヴァニア州Lancaster郡(4万7千)、
第3がインディアナ州LaGrange郡Elkhart郡(3万7千)、
カナダのオンタリオ州にも住んでいる。

歴史から言うと、ペンシルヴァニアが最も古く1720〜50年頃に500人ほどが渡来した。
この地(ランカスター)からクルマで1時間弱走るとチョコレートの街ハーシー(Hershey)がある。
名づけて「世界で最も甘い場所」という。


10年前にアーミッシュを撮影し本を書いた菅原さんという写真家によると

・アマン派にも最多数「古連」のほか、少数だが「新連」「海岸連」「メノナイト連」 
 と、居住地教義生活規範が異なるグループがある

・伝統的には「自動車なし、電気電話は家庭内に入れない」だが、そうではない
 グループ(上の海岸派など)もある。

・教会を持たず、20〜30人がまとまり、各家持ち回りで日曜礼拝(2週に1度)

・アゴ鬚を伸ばすが、クチ鬚は御法度(軍人や政治家の象徴だから)

・当然ながら産児制限をしないので大家族だ

・金持ちも金無しもいるが、同じ服装ゆえ外見から判断できない

という。



村では「馬車に注意!」の標識は当たり前で
「ピューマに注意!」「泳ぐなワニがいる!」もある。
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靖国騒動覚書

三國一朗「戦中用語集」(岩波新書 黄版310 1985年)の前書きに、こうある。

 自分がそこに居た過去の時代を思い起こす、それは誠に辛いことだ。
 自分が生きていた時代のことなら、楽に思い出せる楽に書ける、というのは嘘である。
 なまじっか知っているため記憶しているため、楽には書けない。
 生きていたから、経験している。経験したから記憶している。そう考えるのは危険だ。
                                    

これを前置きとし、今回の騒ぎで「はたしてどうか」と思った事々、私的覚書。

その1.
 「私が生きて経験したから」は、「それが事実だ」という拠り所になっても「私の主張には正当性がある」という根拠に必ずしもならない。前線体験者・被爆体験者などの1次経験者はもとより、「親や祖父が戦死した、空襲地上戦で没した、靖国神社に祀られている、祀られていない」という非直接経験者にも、こうした混同が多かった。
 
その2.
 20代を中心として「一国の代表(首相)が靖国に参拝するのは当然」「外国に干渉されるべきではなく独立国の威厳を守った」などに類する意見が多かった。NHK15日夜の討論番組内で行っていた携帯電話によるアンケートでは、20代の60%が上記意見だった(しかし、回答者数を明らかにせずパーセンテージだけ表したのは不良)。

その3.
 死者に口なし、慰霊参拝は死者の為ならず、と云う。「英霊はココ(靖国)に居て、いまコウ思っている」と確信に満ちた表情で語る人々が目についた。件の首相の孫という老嬢や、特攻生き残り(エンジントラブル等)の御仁などだ。
 鈴木邦男一水会顧問は、この傾向を踏まえつつ「“靖国英霊は、亜細亜が西欧列強に脅かされる中で大東亜平和のため戦った”との神社側説明を前提とすれば、英霊の願いはアジア平和にあるはずだが、靖国合祀と首相参拝でアジア近隣国との関係がキナ臭くなっている(のは願いに反する)。英霊が恐れているのは、靖国が戦争に向かう理論的武器になる(維持される)ことではないか」と書いている(東京新聞8月16日朝刊)。

その4.
 「靖国神社の位置づけ・意味づけ」が賛成派と反対派で異なっている。異なっている以上に大きく隔たっていて、日本人どうしでも「なかなか埋められぬ」印象だ。まさに、ヤスクニは国内問題である。一方に「日本人は死せば神仏となりソレを祀り拝むは日本の伝統文化、靖国は戦死者を追悼する唯一国家施設である」があり、また一方に「靖国は軍国主義の精神支柱であり勝ち目なき前線に兵士を送るための装置であった、現在もA級合祀を諾としたようにアジア太平洋15年戦争を自存自衛戦として正当化し顕彰している」がある。
 また、国家観として、一方に「中国韓国の侵略という歴史事実に配慮すべきである、日本は市民社会が未成熟である、いまだ米の占領下から完全独立を果たしていない」があり、一方に「日本は自存独立を長く保ってきた誇り高き国家である、中国韓国のように国内問題を反日に転嫁する未成熟な国家の意見に左右される必要なはい、一般人の反日感情は教育によって演出されたものだ」がある。

その5.
 「靖国の曖昧さ=戦後処理の曖昧さ=日米関係の曖昧さにある」との意見があり、少数ながら目を引いた。姜 尚中・東大大学院教授は、戦後日本の「出生の秘密」が、靖国騒動の源にあると書く(東京新聞8月16日朝刊)。出生の秘密とは、何か? 戦後日本の出発点に「旧体制と占領米国との“談合”、つまり象徴天皇制導入とA級戦犯7人絞首刑の“引換取引”があった」と解す。極東軍事法廷の結果を受け入れ、万世一系の神格剥奪に替わって戦場死者の神格化を行った。これが「国内問題として戦争責任を問い直す作業」から、日本人の思考を遮った。だから、日本人は戦争の「原罪」を清算できぬままであると云う。

その6.
 「日本人のカミってなんだ」と突っ込む論は、ほとんど無かった。はたして、人霊は神となりうるのか。日本の宗教文化の伝統として、ヒトがカミとして祀られたのは、いつ頃から(一説に菅原道真、一説に豊臣秀吉からと多説あり)で、どんな要件(天皇家を呪い祟る霊力を鎮める等)があったのか。


【本日のつけ足し(私の感想)】

 騒動全般としては、「多様な意見があり、それを尊重する」という建前のウラで、
自分と意見の合わぬ他者を無視ないし排斥するという空気が漂っていた。個別には…

「その1.」の感想
もちろん、戦時体験の事実と、人それぞれの生に深く刻まれた体験は、深く重く傾聴すべきだ。が、そうした個人体験が意見主張の論拠となることはあっても、自説の正しさを担保するには至らない。

「その2.」の感想 
こうした若者たちは、やがて自ら「負の遺産」を清算せねばならぬ時が来たら、どう対応するのか、そこまでの意見と覚悟があるのか、ちと気になる。世間知らずの若者が、退職間近の上司に誘われ、上司の顔の効く馴染み店で御馳走を食べたが、払いは自分のカードだった。後でツケがきて泣きを見ても知らぬ。

「その5.」の 感想
 軍国神仏習合主義(こんな用語があるとすれば)の解体が不徹底だったのであり、それは米占領政策のミスだとの論もあるが、当時ソレをやったら日本人は立ち直れなかったのではないか。英霊神格化は、現実として、日本人が立ち直り生きる精神支柱として機能した。これは否定できないと思う。ともかくもマスコミは、靖国騒動が一段落したら、ドイツとの比較等も交え戦後処理の十分なところ、不十分なところを洗い出してもらいたい。内政不干渉を云うのは、それからでも良し。

「その6. 」の感想
私個人としては、このあたりに興味があるのであって、研究者先生方の意見を聞きたい。
基礎情報については「おことばコレクション」に並べておいた。

そのほか
・筑紫哲也のニュース番組、セットに「鳥居」を数多く飾る。この安易な演出は不快。
・騒動で思いがけず儲けたのは「純ちゃん饅頭」製造元、神社の土産物屋か。
・加藤紘一の母上は無事で良かった。

はたして、来年はどうなるか?

河童如何にして胡瓜好きとなりし乎


河童は、なにゆえキュウリ好きか?

四葉(ス〜ヨ〜)胡瓜

昨日の記事には、これが抜けていた(笑)。

一説に。
某地方では、祇園祭(総本社・八坂神社の祀神はスサノヲ=海を司る神=牛頭天王と、
妻のクシ(イ)ナダヒメ=川の神・竜神ヤマタノオロチに仕えた巫女、との説あり)
の前後6日間は海に行かない「物忌」とされる。
祇園祭は、全国で水神信仰と結びついており、
水神様の物忌期に海に行くような不謹慎者は、河童の害に遭うと云われた。
そこで、初物や珍物を神仏の供物とする風習があり、6月中旬ごろ出廻る
キュウリの初物が、水神様(および使いの河童)の供物に結びついたと云う。

情け有馬の水天宮「椿」紋(こちら蠣殻町)

一説に。
壇の浦で三種の神器ともども入水した安徳天皇、二位の尼(清盛正室、安徳帝の祖母)、
建礼門院(帝の母)を、水神として祀る水天宮(総本宮は久留米・筑後川沿い)では、
河童が水神の使い(水天供=すいてんぐ、稲荷信仰の狐と近いか?)であって、
その水天宮の社紋である「椿」が、キュウリ輪切の切口に似る故と云う。

一説に。
河童は水の精の零落した姿であり、それが季節の野菜の作付を邪魔するため、
キュウリ・ナスを供え機嫌を取ったとか。はたまた、ヒマラヤ山麓原産の胡瓜を
霊力ある野菜とみて、それこそカッパの馬鹿力の源だろうと考えた。

話かわって、英国の…

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火城と河童
都心を撤収して、始めたことが2つ。
ひとつは、教授(比較宗教学)や博士(国立天文台)
や先生(言語学)の講議を聴くこと。
なかには、正規の大学授業もある。

もうひとつが、江戸東京たてもの園のボランティア
主に「燻煙』と云っているが、200年〜300年前に建てられた
木造茅葺き農家の囲炉裏で、日がな一日、薪をくべている。
これが、楽しい。

たてもの園の中には、古い農家が3〜4軒あるが、
ほぼ毎日、燻煙の作業をしている。
ボランティアの平均年齢は、ゆうに60歳を越えている。
主力は、定年退職された先輩方だ。

かれらは、囲炉裏ではなく「ヒジロ」と呼んでいる。
火城または火代と書いて、ひじろか。
三多摩から、相模湖、山梨・富士吉田あたりまで「いろり」よりも
「ひじろ」が一般的だったのだそうな。

小津監督と野田高梧がシナリオを書いた蓼科「無藝荘」のひじろ


たとえば、河口湖湖畔、庄屋の某の家の「ヒジロ」には、
保存食のアブリ魚(燻製)を、河童がたびたび盗みに来た。
朝起きるとヒジロの回りが濡れているので、それとわかった。
しかし、河童は湖の水神とも伝えられており、
庄屋は、そのままにしておいてやった。

で、ある日、ヒジロの脇に巻紙が置いてあり、それを開くと、
「河童膏」という名薬の作り方が書き付けてあり、
さっそくに調合してみると、傷や火傷によく効いた。
庄屋は、その薬を全国に売り出して大金持ちになったそうだ。

河口湖の河童伝説

河童膏の話は、全国にある。
宮城県のほぼ真ん中、2000戸の色麻村では…



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キリマ・ンジャロは輝く山
先だって,東アフリカ人文研究会の発足記念パーティに行ってきた。

タンザニアを中心に,スワヒリ語を話すケニア・ウガンダの言語・宗教・教育・芸術等を
研究するとのことで,比較宗教・文化学に取りくんでおられるU先生が代表である。
タンザニアは,アフリカの中でも「すばらしい国,また行ってみたい」と云う人が
多いらしく,私の呑み仲間にも,そんな男がいる。

研究会では,これから,いろんな話をお聞きしたい。
例えば,ヴィクトリア女王がキリマンジャロをドイツに贈呈した話。

キリマkilimaは「山」で,ンジャロnjaroは「輝く」の意だそうだが,
1884年〜1885年のベルリン会議(アフリカぶんどり合戦会議)において,
当時のドイツ皇帝・ヴィルヘルム2世が25歳の誕生日を迎えたのを記念し,
女王がキリマンジェロを丸ごとドイツ領として譲った。
なんせ,ヴィ2世は女王の孫(プロイセン王子に嫁がせた,長女の息子)だから。
まあ,わかりやすい話だ。この山頂5,895m(Ufuru Peak)に「ウフルの灯」という
モニュメント(?)があるらしい。ウフルUfuruは,スワヒリ語で「自由」であって,
かのレゲエの名グループBlack Ufuruの由来となったのであります。
Kilimanjaro Expedition
Black Ufuru

そのほか,ブラック・ナポレオンと呼ばれたヘヘ族ムクワワ王と
ドイツ軍との戦い(マジマジの乱・暴動・抵抗)も,興味深い。
また,調べて書こ。
禁制の蕎麦

陽気がいいので,弁当もって自転車で散歩に出た。
普段からクルマの多い道は通らないが,今日は交差点でも混んでいない。

まず,井の頭公園を抜け,北へ走って東京女子大の脇から善福寺公園へ。
池の上を、鯉幟が泳ぐ。


一度,仕事場に戻り,冷蔵庫からビールを持ち出し,牟礼の里で弁当。
苔の新緑がキレイだ。少し昼寝した。顔がやや赤くなる。


次に,北烏山のブックオフで,関容子「中村勘三郎楽屋ばなし」と
サライ編「蕎麦通復刻本」を買ってから,烏山寺町を回った。
歌磨の墓(専光寺)はすぐわかったが,為永春水の墓(妙善寺)はわからず。
代わりに,其角の墓がある稱往院前で「不許蕎麦入境内」碑を携帯で撮った。


この寺は別名「そば切り寺」と云ったが、その後一転「そば禁制」とした。その訳は…
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本郷の鰯

「目黒の筍」に続いて,「本郷の鰯」という話をば。



東大の周辺には昔から「いわしや」という看板を掲げる店が多い。
戦後一時は20軒以上あって,これは飲食店と思いきや,医療機器を扱う会社だ。

なぜに鰯屋か? それは,こんな話。

徳川家康が江戸入府(海路)の際,大阪・堺の網元数人を召し出し,付き添わせた。
お供は,伊賀忍者や,本能寺の変を期に家康に信厚かった摂津佃の漁民だけでなかった。
で,旅も無事に進み江戸が見えてきた頃,数尾のイワシが跳ねて船に飛び込んできた。
網元らは「こりゃ,縁起のええこっちゃないかい」「ほんまや,ほんまや」とばかり,
殿様から日本橋の一等地を与えられ店を開いた際に,「鰯屋」の屋号をつけた。

江戸買物独案内

やがて,網元らは新天地・江戸で,漢方薬を扱う問屋(薬種屋)に転じ,財をなした。
代が替わり浪花言葉も忘れた旦那衆は「これからぁトト売るよりゃクスリ売った方が
良かろうぜ。なんせ,魚三層倍,クスリ九層倍,坊主丸儲けって云うくらいだ」と…。
その後,のれん分けもあり,日本橋周辺には「鰯屋」で知られる薬問屋が群れなした。
明治に入ると,新政府が薬販売に規制をかけてきたため,こんどはハサミやメスなどの
医療機具を職人に作らせ医者へ売る店へと転業。医師の御用聞きを勤めるために,
多く東大医学部周辺に移動して来たのだという。

この話,東京新聞4月22日付に載っていたが,
少なからず私の脚色も入っている(笑)。

上画像は,文政7(1824)年に出された,大江戸ガイドブック「江戸買物独案内」中表紙。
江戸版・大阪版・京都版があったらしい。神戸大学に保存されている
同書の「鰯屋」実物ページ>は,こちらから下巻・画像17へ。
すでに本家・総本家・元祖…となっているのが面白い。日本橋3丁目に「鰯屋」が
3軒あった時分には「どっちらの袋か知れぬ三丁目」と,川柳に仕立てられている。


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